昭和の風林史(昭和五八年三月十七日掲載分)

ニヒリズムの世界の小豆

今の小豆は大衆が傍観すれば買い方自滅という構造で、無関心無抵抗主義が勝つ。

輸大も厭きてきたような商いぶりだ。

小豆の立ち会いも二分ぐらいで終わる。淡々とした取り引きというか、無感情というかニヒルな値の付き具合いだ。

輸大も大穀あたり懐疑的で倦怠感そのもの。

これをデカダニズム的相場という。

小豆がニヒリズムで輸大がデカダニズムでは、芸術や文学の世界でないのだから困るわけだ。

取引員経営者も歩合セールスも取引所職員も虚無的な影を落とす昨今、投機家も建玉カードの値洗いは水漬りで苦い顔つき。

これではひねもす春の海のたりのたり、猫は鼠を捕えるのを忘れ、セールスは追証を取るのに困り、客は新規を建てる気もなくなる。

要するに、この世界は心にときめきを失うと、相場も市場も人間も、すぐに老化してしまう。

さればと気をとり直して、心にときめきを求め小豆の下げトレンドに乗らんか。いやいや、大衆が売ると捕まる市場だ。

売らないから下がる。これが最も悪質な相場である。

先限三分の一下げが八千四百円割れたところ。半値崩しは七千八百円処。

事情通、現物筋、玄人筋が強気で九千円台を買った。しかし期近からゆるむし、産地が植物人間的相場では詮ない千鳥のやるせなさだ。

笛吹けど踊らずというが、笛さえ吹く人がいない。やはりニヒリズムの世界だ。

相場の流れからいうと『三(み)月またがり60日』。節足30手。新値18手。

やはり疲労がきている。

まして筋と皮だけの取り組みで、相場の垢をなめるような手口ばかりでは、一度深い目に下げて、相場に休養を与えなければなるまい。春山眠るが如く崩れんという風情。

●編集部註
 板寄せ取引がどんなものかを知らない人達がだんだん増えている。
 存在がなくなって知る有難味というのは、まさしく穀物相場における板寄せであろう。この業界に入った時は全部ザラバにすれば良いのにと思っていたが浅はかであった。
 ただでさえ商いが薄い相場でザラバは不利である。それならいっそ短い時間で売買注文を一気に集める板寄せに分がある。
 立ち合い二分で終了をニヒルだデカダンだと評するのは微笑ましい。
 板寄せの最晩年では二分も続けば大商いだった。二分がニヒルなら平成の板寄せはデモーニッシュかつシュールレアリズムの世界。現在の穀物取引はサミュエル・ベケットの不条理劇の世界である。