昭和の風林史(昭和五八年十一月七日掲載分)

曲り屋には曲り屋の根性

売りの辛抱は怖くない。曲がり屋には曲がり屋の意地がある。気弱になったら負けだ。

小豆はまいった、まいった。売り玉追証で煎れるか頑張るか。一、二、三月限の騰勢すさまじい。

四月限で三千三百円あたりを週前半瞬間的に付けたら終わりだ。

このような時は、じっと我慢の子で時の過ぎるのを待つ。火が燃え尽きれば、反動必らずくる。

売っている人にとっては“毎日が天井”だが、買っている人は“毎日が大底”である。

曲がり屋がなにを言ってもはじまらないが、月曜で値を出しきると思うのである。

一、二、三月限(大阪)は三空(三ツ目の窓)で買った。

凶作相場のアンコールと輸入小豆の入荷遅れプラス、端境期相場が人気化して煎れになった―と定義する。

だからそれらが済めば、なんということもない。

凶作のアンコールは北海道相場で山を越した。

年末需要も現物の高値掴みで峠を越すだろう。

輸入遅れは納会きわどいところでモノは入る予想。

となれば、内部要因で煎れ出尽くしのところが天井になるはず。

売り玉が、もっとも熱くて、気持ちがもう持たないというところ。それを耐えきれば、奈落の底に転落する相場が控えている。

セールスが先限の三万五千円絶対だと言うのです―と。三万六千円から八千円もあるなどと、売って気弱になっているお客さんにおどしをかけている。

ここは根性であり信念である。もうすぐ近々にS安だってあろうかという下げがくるのだから曲がり屋は曲がり屋の意地というものを一本通すところでなかろうか。それが勝利の道。

●編集部註
 相場は「運」と「根」、そして「鈍」であるという。
 この業界に入って間もない頃、筆者は最後の「鈍」が良く理解出来なかった。しかし、いまなら充分理解出来る。兎角、人は相場に対してあれこれと〝いらんことしぃ〟になってしまうもののなのだ。
 それをしないための「鈍」であり、それを続けるための「根」なのだ、といまでは解釈している。
 曲がり屋の維持は「根」である。ただ、タチが悪いのは「根」もまた「運」であるという事である。
 「運」がなければ、ただの頑迷で終わる。冷静に分析して、まいった、まいったとなれば「見切り千両」でなければ死ぬ。それも「根」であろう。
 「運」があれば、何とかなるさと「鈍」を行使しても何とかなる。そのあたりの見極めが難しい。
 喜劇人萩本欽一は、重度の運命論者である事を知る人は意外に少ない。彼は著書の中で運を「育てる」「貯める」という表現を頻繁に使っている。