昭和の風林史(昭和五九年四月十七日掲載分)

下値には頑強な抵抗あり

小豆七月限、八月限が天候思惑で買われるぶんには問題はないわけである。

現在小豆市場が問題になっているのは、六月限の片寄った買い玉(東穀)と、限月中最大の取り組み(大穀)になっている現象が、異常だということである。

大穀市場では、商いのよくできる六月限に、どうしてもお客さんは手を出してくる―。この限月の自己玉は千五枚売り・四百一枚買いと、顧客筋の売りを物語る。

東穀における二店の買い建ては、これだけ玉が片寄っては進退に窮するだろうと見るのが市場の一般的予測だ。

なぜ、ここまで玉が片寄るのを放置していたのだろう―という意見もあるが、取引所としては建玉に干渉しすぎるのも考えものだしルール違反がなければ取引員の良識に待つほかない時期もあろう。

さて、相場は相場で政治(取引所行政や市場管理面)に関知せずという投機家の立場からすれば、前三本は避けて、七限、八限の天災期限月を、どのように考えていくかである。

当面、交易会における成約数量、銘柄、値段、積期が材料であり、台湾側の強気姿勢と絡んで、定期相場が、どのような反応を示すか。

人気面では、小豆の好きな投機家が、天候思惑で買いついたから、相場は重くなるという見方と、需給事情は、かなり緩むはずだという弱気が玄人筋の主流をなしている。

しかし先のほうの限月から反発に転じた場合、これは自然の成り行きで、まして市場振興の願いが底流にある以上、“動く事はよい事だ”という事になる。

トレンドのほうは、潰れかかったが、どっこい生きていたという無気味な線型で、七限、八限の三万二千三百円抜けへの展開が押し目売り玉捕まえて、いずれ実現するだろう。

●編集部註

相場は相場で政治に関知せず―。その昔、世界史の授業で習った〝レッセフェール〟の世界である。ただ、この言葉が初めて用いられたとされる革命前のフランスや、同時期の英国で書かれたアダム・スミスの『国富論』で〝神の見えざる手〟と形容された世界と、現在のレッセフェールとでは若干ニュアンスが違う。思うに今は「自己責任」という呪いの言葉が縫い付けられている気がしてならない。これを錦の御旗に、言うだけ言って、やるだけやらせて失敗したら責任を取らない無責任な輩が増えた気がする。

思えば、アダム・スミスは経済学者であると同時に哲学者であった。彼が大学で教えていたのは論理学や道徳哲学である。 

哲学を修めたから偉いという訳ではないが、ある程度の倫理観がないとダメ―という事だろうか。