昭和の風林史(昭和五九年二月二日掲載分)

銀だ、ゴムだと日脚伸ぶ

相場世界はニヒルになってはいけない。絶望からは、なに事も生まれないのだ。

金銀相場やゴムが高いと投機家の関心がそちらに移る。

銀に対する関心は新ポの出来高を見てもよく判る。

読者から『短波放送で金銀・白銀相場を流してほしい』という要望が非常に強い。東京金取引所にその事で電話をするらしいが『テレホンサービス(今は金だけ)で聞いてほしい。あるいは取引員に聞けば―』と。

関西から、いちいちテレホン聞くのも電話料が嵩むし、取引していない店に値だけ聞くのも気がひける。

金取引員協会長の古川氏に短波放送の件を問うと、経費等のいろいろな絡み(全協連など)があって、まだ事務的な面の詰めが放送会社とのあいだにもできていないが、前向きに検討していきたい―と。

中央(東京)では左程不便を感じないが、地方の投機家は、短波放送の相場放送が唯一の情報源である。これから金や銀の相場に取り組んでいこうという人も地方には意外と多いという事を知るのである。

しかし取引員の数と支店、出張所の数がまだまだ穀物看板数に比較して少ない。投機家にしても新しい投機層が流入するのではなく他商品市場からの環流である。これらは取引所、取引員の今後の努力を待つところである。

さて小豆を書くと、いつまでも小豆じゃあるまいといわれる。確かにそうに違いないが、滅びゆく市場の恍惚というものがある。人絹市場がそうであったし、大手亡豆市場もそうであった。滅びゆくものは美しいのである。

そして、これも相場―という次元で見ていけば、まんざらでもない。

小豆や輸大で大きく打たれた人にとっては、しばらくは相場見るのも嫌であろうが、なに事によらずニヒルになってはいけない。まして相場社会は。

●編集部註
 ニヒルなのは、天地茂か市川雷蔵の眠狂四郎だけで充分である―。と、言っても理解してくれる人がもう少なくなって、いや絶えて久しい。
 昭和は遠くなりにけりを深く味わう日々なり。
 そもそも「ニヒル」とはラテン語で「虚無」の事を指す。〝なに事によらずニヒルになってはいけない〟という言葉の意味を30代から40代前半の人に解説するなら、漫画スラムダンクで安西先生が放った「あきらめたらそこで試合終了ですよ… ?」という台詞が一番的を射ていると思われる。
 経験則上、何事も楽観的な表現よりも悲観的な表現の方が読む側の食いつきが良い。実際、選挙戦でのネガティブキャンペーンは効果的。故に古今東西の悲観的表現は注意しなければいけない。