昭和の風林史(昭和五九年一月二十七日掲載分)

この小豆はまだ緩まない

ないもの高は仕方ないという小豆の納会。二月限も恐らく同じコースになろう。

市場でなにが起ころうと、相場は相場であるからとやかくいうべきでない。勝てば官軍。なにがなんでも勝たねばならぬのが勝負である。相場に道徳なし。市場管理に一貫性がなかろうと、あるいは一部有力者の“私情管理”であろうと、それも相場。とやかく言うことはない―と、業界にもう古い風林ファンの営業マンから手紙をいただいたり、中堅営業マンと雪の降る夜に水炊の鍋を囲みながらの話で、相場はあくまでも強弱一本がよい。政治に関与せずで、制度、システム、規制等にかかわらず純粋相場論、売りか買いか強弱一本で書いてほしい―との要望。

先物市場はどうあるべきか―の議論は、相場で銭をむしり合う投機家には不必要というのが、業界の第一線営業で日夜野戦攻城に激闘している人々の気持ちのようである。

逆ザヤ結構、玉締め結構、要するに相場は儲けにあり。高邁(まい)なる市場機能論など無用。小豆が上場不適格であろうとなかろうと、関係ない。

それが嫌な人はとうの昔に市場を離脱している。

相場に負けた側が、とやかくいうだけで、儲けた側は、なにも言っていない。

確かに言われる通りかもしれない。嫌なら小豆に手を出さなければよいだけである。たとえ土俵がつぶれても、それはそうなる運命であれば、それでよいではないか―と。

この考えかたは筋が通っていて気持ちがよい。八代亜紀が歌っていた。取引所は無能がよい。相場はボスについていくがよい。玉締め買い占めやるがよい―と。政治に関与すべきでないという方針をチョークで線を引いて強弱のみに徹する行きかたに埋没し、三猿主義を貫いたほうが、よいのかもしれないという考えになってきた。

●編集部註
 沖のぉぉカモメぇ~に、深ァァ酒さぁ~せぇてヨ。
 いとし あの娘とヨゥ朝ぁぁ寝ぇぇする。
 ダンチョネぇぇ~
 八代亜紀の舟歌なら炙ったイカに温めの燗酒だが、傷心の風林火山には水炊きであったらしい。
 こういう時に匠な文章センスを見せるのが如何にも風林火山らしい。
 九州は博多辺りならいざ知らず、通常であれば関西にいて雪降る夜につつくのは、おおよそ河豚と相場が決まっている。断じて、水炊きではない。
 現在、築地天竹の最上級てっちりコースは2万円でお釣りがくる金額。しかし時代はバブル景気前の関西。負けたとて払えない筈がない。要は河豚鍋の気分ではないのだ。
 相場に勝っていたなら、恐らく新地あたりの個室で、婀娜な年増と河豚鍋をつついていた筈である。