昭和の風林史(昭和五七年十月二八日掲載分)

各市場ことごとく衰老す

仕手相場のあとは、よれよれになる。輸大も生糸も荒涼。それにしてもひどいもんだ。

生糸市場は騒然としている。現物の洪水に巻き込まれた格好。

それでもなお横神在庫の水嵩は刻々とふえ、早や来月渡し物五百俵が見えている。

買い方は俵の読み違いをしたのでなかろうか。また六本木絡みの問題などもあり一寸先は闇。

相場自然の流れからいえば、あるべき姿、即ち順ザヤに戻るしかない。

生糸戦線は長い戦いであった。兵馬倥偬(こうそう)の果て三軍ことごとく衰老。空にハカない片割れ月。

大受け渡しのあとに残るのは疲労した市場と、よれよれの相場のみである。

注目の輸大納会は荷を集めるだけ集め名古屋は六千円台乗せ。大阪は六千円に三文遠慮した。

現物筋の話では六千円の千円下で現物いらないか?という話でしたが実需は手を出しません―。

買い方、場勘は取ってきたものの、大仕事の割りに益なきご苦労。

意地は通せど、聖域を犯したという批判はまぬがれず市場不信感がつのる。

特に東穀の六千二百十円納会は、やりすぎだ―という批判が高まった。

いやはや恐るべき昨今の相場である。

この輸大も生糸みたいに納会後が悪いですと、ものいわぬ11月限がものをいう。

納会のない小豆は関心が薄い。

先限九千円抵抗は値頃観の買い。割って戻すか、割らずに戻すか、割ってよし、割らずもよし、落ち行く先は二万五、六千円(12月)。

ともかく業界が荒涼としていること。小豆を大きく買い上げていくエネルギーはない。玉の出具合い、薄商いで反発しても、現物の売りの前には値がモロイ。

そして政策政策いうけれど、政策は信ずべし、されど信ずるべからずだ。

●編集部註
 自裁した芥川龍之介は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残したが、この文章は商品業界の将来に対する唯ぼんやりした不安という言葉になるだろう。
 〝唯ぼんやりした不安〟というを描いた作品は古今東西多岐にわたるが、大別すると陽気と陰気に分かれる。いま、東京池袋にある文芸坐では、映画監督森田芳光の全作品の回顧上映しているが、彼が81年に撮った「の・ようなもの」は陽気な不安の映画であった。
 バブル景気は86年まで待たなければいけない。その前に、円高不況というものがやって来る。この時代はその不況の入口であり、不安もまだ陰惨なものではなかった。