昭和の風林史(昭和五七年九月十日掲載分)

小豆も生糸もつるべ落し

小豆売り、生糸売りどっちが速いかである。秋の日は、つるべ落としで下げにけり。

小豆相場は二万九千円割れの抵抗ラインを九千三百円あたりに敷いて防戦している格好である。

これは、ある特定の筋だとか、誰それが意識してやっているのではなく、いわゆる万人のみる目の値頃観である。

商いのほうは薄いから三百円幅、四百円幅は、まるで宙に浮いていて、安い時もそのぐらいはストンとくるし、また、戻す時も三、四百円は行ってしまう。

このようにして時間の経過を待っているわけだ。

相場の流れとしては大勢も大局も売りの中にある。確かに理屈をこねれば二万九千円以下は具合いの悪い値段かもしれないが、相場というのは一に人気、二に場勘戦争である。

理屈はそうであっても、相場は聞く耳もたない時がある。

二万九千円割れ→八千円割れという場面は、そのような人気の片寄りによって可能である。

要するに三万円台の買い玉の場勘攻めからくる投げによるものだ。

電話で問い合せの多いのは三万一千円台の買い玉で、そのような玉は助かりっこない。当面強くみせるところは、売っていかなければ、いつ真空斬りにあうか判らない。

輸入大豆は期近二本の需給が買い方に味方している。早やければ明日、遅くとも週明けから強い基調を表示するだろう。

生糸は買い大手と機関店のバイカイ付け替えが目立った。

買い方は時に利非ず。

横神地場筋の売りが利食い専念だった。

生糸は抜け解け合いがよくあるので皆さん用心する。

だから、ともかく利食い先行だ。しかし、なに一ツ解消したわけでない。

四千五百円→四千三百円目標の彼岸底人気である。線型も話にならない。

●編集部註
 〝横神地場筋〟と聞いて初めはピンと来なかった。
 その後で横浜と神戸という事に気付く。
 横浜が幕末に開港した当初、生糸は横浜港の主力商品であった。
 三渓園を造営した原家の末裔、原善三郎。横浜松坂屋の前進を経営していた元木惣兵衛に並び、生糸商の吉田幸兵衛などが今の横浜を発展させた。
 大正時代、生糸の取り扱いにおいて、横浜に並ぶ規模であったのが神戸であった。
 港町神戸のシンボルの一つとして今も残っているのが1927年に建設された旧神戸市立生糸検査所である。
 横浜にも、神戸にも昔は商品取引所があった。
 今はもうない。