昭和の風林史(昭和五七年六月十七日掲載分)

超閑散は穀取不信感表示

誰も手を出さなくなった。穀取は夢遊病者みたいになっている。困ったことだ。

例年なら照った曇ったで産地の天候が敏感に反映して商いも賑やかな小豆相場であるが、こんな相場になると手を出す人がいない。取引員経営者も歩合セールスも、今の状態が続いたら、お手上げだと頭をかかえている。

〝常識的売り〟は納得できない負けかたをして、今の小豆市場は釈然としない。天候が悪いとか、作柄にキズがついたとかいう理由で踏まされ、損する分には自分で納得できる。

業界には新規20枚まで三カ月―という自主規制がある。取引所はこれについてことのほかやかましくいうが、買い仕手が名義を割って、割った名義で期近限月を買い、納会現引きする。建前からいえば、素人中の素人が当限を買って現物を受ける―という事態がおかしいし、まして現物流通に、まったく無関係の人たちの、このような行為について取引所は、手も足も出ない〝おびえかた〟だ。

取引所は相手によって火のついたようにやかましくいったり、まるで腰が抜けたようになったりでは困る。

―そのような声が業界で日に日に高まっている。

小豆期近限月は価格操作の疑いが濃いはずだ。役所は取引所に厳重に注意している―というが、取引所は、なにかに恐れをなしているみたいで、これは一体どういう事か。

権威と秩序と機能を失いつつある取引所は、百害あって一利なし、小豆の市場は閉鎖しろ―と国会で糾弾されたり、当業者業界から弊害が叫ばれたりすれば小豆は上場廃止の運命をたどることになる。

商いはまったく落ち込んでしまった。穀取の腰抜け無能に抗議している。

●編集部註
 市場は〝しじょう〟と読んだり〝いちば〟と読んだりする。どちらも売り手と買い手が揃わないと商いが成立しない。
 お客さんあっての取引所なのだが、どうも〝いちば〟である感覚が運営側に無いのだろう。故に「相手によって火のついたようにやかましくいったり、まるで腰が抜けたようになったりでは困る」と苦言を呈されてしまう。 常連の太客ばかりを優遇し、チンケな客を冷遇するような〝いちば〟に人が集まるわけがない。
 本来、市場は客を集めてナンボ、集まってナンボの世界なのである。
 太客は、ある日突然いなくなる。
 江戸時代、雁金屋という超高級呉服屋があった。東福門院という上客を抱え、当時の文化の最先端を走っていたが、東福門院崩御と共にあっけなく破産してしまった。