昭和の風林史(昭和四八年十二月一日掲載分)

魔の三月新ポ 黒い九月再現か

あえて売らないが、それだけにこの小豆は戻り売り型の年内下げ一方だ。三日新ポは壮絶崩し。

「切干や昨日の色に今日の色 莉花子」

小豆の一万五千円割れは誰も彼もが強気になりきっている今の市場では、強力仕手がかった手の買い出動が期待され、一連の買い店から巻き返しに出れば、ものの五、七百円の反発は、難しくないという見方だ。

もとよりそれは相場の強弱でなく、他人頼りの大提灯で、もし、仕手がかった手がなおも見送るようなら落潮滔滔。一万四千円割れも相場という事になろう。

筆者は思うのであるが、仮に買い方が、その軍旗の先に黄色いリボンをむすんで風になびかせ奇襲攻撃をかけてきても、一万六千円はダンゴ天井。抜くに抜けないだろうし、そういう事をしたあとの相場はもっと悪くなる。

手亡の相場が一万四千五百円あたりにくると伸びきれないのも、手亡相場の限界がそこにあるからで品不足だと大きな声で叫べども、手亡が一万五千円、六千円、七千円と上伸することはない。

いや、付けようと思えば手亡の一万七千円は簡単につけられる―と自信に満ちた相場師は言うかもしれぬが、相場は運動会の棒倒しではないのだから意地づくで付けても採算に乗らないしそのような事をすれば価格操作になるだろう。また、いかに頑張っても環境見方せざれば付くはずがない。

付けようと思えばつけられる―という言葉は、思いあがりも甚だしい、相場の相場たる所以を知らない者が、すぐ口にする言葉で半ばそれは、小心者のやるこけおどしである。

相場とは、そのような単純なものではない。

手亡が一万四千五百円どころにくると、へなってくるのは、それだけの理由があるからで、情況が変われば自然に一万五千円もつくだろうし、また一万三千円を割るかもしれない。

小豆だって、一万六千円は、手亡のそれと同じであると思う。

買い方が、一万五千円割れを強引に買い煽ったとしても、恐らく相場が高いのは一時的現象で、悪くすれば一万四千円を割るだろう。

強引な無理は瞬間的に通用するが、川の流れは再び自然に戻るもので相場とて西に沈む夕陽を喰い止めることは誰にも出来ない。

●編集部註
 昭和四八年十二月。一カ月間に及ぶ大レンジ相場が間もなく終わる。

 売り方も買い方も目先の値位置に慣れ親しんでいる節がある。そんな時に上り坂でもなく、下り坂でもない魔坂が来る。

【昭和四八年十一月三十日小豆四月限大阪一万五三〇〇円・五〇〇円高/東京一万五三三〇円・四五〇円高】