ダンゴ天井型 年内下げ一方か
人が相場に勝っているように見えても、それは一時的なもので相場は再び相場本来の姿に戻る。
「冬枯や在所の雨が横にふる 一茶」
小豆の相場つきは、決して強いとはいえない。六千円どころはダンゴになって、大きく抵抗した。
そして先限は黒々と千円棒を垂れてきた。
ただ、誰もが思うことは、相場自然の動きなら二千円下げ、三千円安ということも充分あり得るとしても、いつどこから、強引に買いの手が出て、様相一変という事態にならぬとも限らない。
それが怖いというよりもそういう手に、ひねられるのは馬鹿馬鹿しい。
見ていると、相場は疲労している。定石でいえば、下げるところである。下げるだけ下げれば、また相場が若くなる。
ところが昨今、定石など通用しない。時代が変わり、世の中の仕組みが変わると相場も変化する。
特に穀物の相場は、繊維相場のように、理くつは通用しない。
市場が狭いこと、キャパシティを上回る投機資金が介在していること。そしていわゆる地場筋のテクニシャンが、かなりの範囲で活躍できる素地があるだけに、時に部外者の目から見れば市場操作と映ったり、価格操作と見られたりすることもある。
しかし、これらの現象も、手亡相場に、はっきり出ている如く、あまり露骨になると、人々は敬遠して寄りつかなくなる。
相場は一部特定の人たちに私物化されるべきものではない。
もし私物化されるようなら手亡相場の如く、もっと極端になれば人絹相場、黒糖相場のように、だれも見向きもしなくなろう。
小豆市場は投機家過剰といえよう。
だがこれも一現象、一過程に過ぎない。どこかで自然に戻ろう。
力強き者は力強きが故に破られる。よく泳ぐもの、またよくおぼれる。マンモスは巨大なるが故に滅びた。インカ帝国またしかり。
小豆相場の覇者をふり返れば、その時代、時代に即応した英雄の出現を見てきたが誰か滅亡を免れたか。
相場市場における覇者の権勢、まこと夢幻の如きものなり。
しかし相場の生命力は永遠。
相場本来の生命力が、よみがえる時もこよう。
●編集部注
行間から売り方の安堵感が読み取れる。ハッキリ〝疲労〟という文字も登場。本音は皆休みたい。
そうは問屋が卸さない。相場は無常で無情である。
間もなく下降五波動目が終了。ここからひと呼吸挟んで、翌年元旦に向けた上げ相場が始まる。
【昭和四八年十一月二八日小豆四月限大阪一万五〇七〇円・五一〇円安/東京一万五一〇〇円・三六〇円安】