昭和の風林史(昭和四九年三月十一日掲載分)

蘇りつつある 買い場を逸すな

十一日には温暖期予報、日柄も接近。小豆相場は蘇ろうとしている。誰が売ろうと構うことはない。

やっぱり下げられんわい―と相場が語っている。

主務省の監視の目が光っている。

静岡筋は〝封じ込み作戦〟に会って動きが取れない。

産地手配に走り、桑名筋が売り継続している。

―とまあ、いろいろ言うが、この〝堅さ〟はどう解釈すればよいのか。

相場は呼吸している肉塊である。真二つに断ち切れば苦痛のうめきをもたらすし、血しぶきもあがる。桑名筋のお手並み拝見―と口さがない市場雀はうるさいが、売っているのは桑名の殿様だけではないし強気しているのは何も身動きがとりにくくなった静岡筋だけではない。

相場は人々の思惑にも無関心で、少しも呼吸の乱れを感じさせない。

このところ、あざやかな手並みを披露している脇田米穀。阿竹専務は『この相場、売る手はない。桑名筋の産地手配がどうのこうのと市場では言っているようだが、あまり気にする必要はない。農家がスムーズに売ってくるものなら、とっくに相場は下げているはず。私も経験のあることだが、苦しい手当などするものではない。日柄は接近してくるし、ヒネがなくなれば恐い相場だ。一万七千円に対しても意識しすぎである。一万六千円、七千円は決して高いとは思わない。三度目の一万七千円抜けからが大きい相場である』と。

ある行者はいう。「まむしの毒は人間を殺しはしない。それを恐れる人間の心が死に至らしめるのだ」。

思考するということを計算することと錯覚している人が多い。

錯覚というのは、つまらない問題を取り上げ、さも重大ごとのような素振りと音色を使えば、本人はもとより周囲の人々にも、それと気付かずに伝染するものである。

二十万俵の消費地ヒネ在庫が三月納会で渡されるという。昨年の秋から先刻承知のことではないか。

産地での手当ても相手があってのこと。仕切ってこなければ絵に描いた餅か。

何をあわてることがある。

売るものは売ればよい。

国策に沿う―などと、美化し正当化し、論理化する必要は少しもない。

現実の天候不順、狂騰の海外白系雑豆、インフレを直視すれば買うしかない小豆相場だ。

●編集部注

 相場とは関係ないが、この週にフィリピンから小野田寛郎が帰国する。

【昭和四九年三月九日小豆八月限大阪一万六八四〇円・三〇円高/東京一万六七〇〇円・一〇円高】