昭和の風林史(昭和四八年十二月三日掲載分)

歳末相場突入 目の色が変わる

強気は強気、西は西、ビギンザビギン歳末相場。街を行く人の歩き方がだんだん変わってくる。

「竜胆に日のさして居る時雨かな 泊月」

またやってはるわ―となると、相場も白けてくる。五千円割れは買い下がり、安心感があった。相場のパターンは変わっていないかに映るけれど、こんなの相場でない―と、小豆市場に見切りをつける人もある。

買い方は、面白がっているようなところも見受けられる。いうなら火遊びみたいなものかもしれん。

陽動が利くということは、それだけまだ相場に余熱があるわけで、まあ五千円中心の逆張りだと思えばよいのではないか―というのが穏健派。

なあに、産地が売り渋っているのは、実収高が巷間予想されているように二十万俵ほど鎌入れ不足だからさ、農林省の発表に焦点を絞って、年末から新年にかけての一万八千円相場は絶対必至だよ―と万年強気組。

一万六千円どころは、かなり買いついたところで、これを買い切っていくにはよほどのエネルギーを必要とする。産地も年末の換金売りに出てこようし、国会が始まれば、投機家の活躍は控えざるを得ない。主務省も神経が敏感になる。

物価問題でこれだけ世間がいら立っている時に、先物市場の買い煽りは必ず問題になろう。噴き値売りで一万五千五百円以上は売っておけばよい―と軟派。

そうはいかんさ、年末だもの。儲けられるときに儲けておかなければ。輸送事情は悪いし、産地は売ってこないし、諸物価は比較にならぬほど高騰している。

高値から千五百円下げて文句なしの押し目を構成した相場じゃないか。

高すぎると思う者は売ればよいので、上値ありと見る者は黙って買うだけだ。

相場なんて付いた値が相場で、誰が買おうと下がるときは下がり、誰が売ろうと騰がる時は上に行くものさ。一万五千円を割って、一万四千円を割らなかったことはこのあたりが妥当な下値だった証拠にほかならない。

相場の強弱勝手たるべし。上だと思えば買う。下だと思えば売る。判らなければ見送ればよい。

時々思う。相場の高い、安いなど、どっちでもよい―と。

儲けた、損した、些細なことではないか。

熱くなる者は、いやが上にも熱くなり、冷めるものは冷めればよいのだ―と。

●編集部註
〝狂乱物価〟に、売り方の心も沈む。

そういえば小松左京の『日本沈没』が映画化されたのはこの年の十二月二九日であった。

【昭和四八年十二月一日:休場】