昭和の風林史(昭和四九年十二月四日掲載分)

目先を考えずに 長期展望の強気

忙しければ忙しいほど、いろいろな事を考えるのであろうか。相場のほうは強気一貫である。

「佗助や障子の内の話し声 虚子」

松永安左ヱ門氏が常に口にしたという言葉に『小さな妥協は小さな人物でも出来るが、大きな妥協は大きな人物にならなければ出来ない』―という言葉を近ごろよく思い出すのである。

なるほど、妥協を許さぬ―という人物も多い。それが団体等の長であっても包容力のない、妥協性を持たない人物が、まま存在するからである。

民主主義は妥協の産物である。もの事を纏めていく上において妥協は必要な武器である。

松永氏は小さな妥協、大きな妥協、それは小さな人物、大きな人物による―と人間の器量を見抜いている。

妥協性は物ごとを見ぬく力が浅いからでもあろうし、人物が狭い、幅がない、底が浅いということにもつながる。

妥協すれば、必ず自ら補わなければならない、なにものかが発生する。それを補うことが出来るが、出来ないか、それは力であろう。

仮りに団体等の長で妥協性のない人物を擁した場合の結果はどうなるか。この結果は言わずとも判るのである。

しからば、妥協ばっかりして自主性のない人は大人物なのか。それは違う。自分の考え方、自分の哲学、信念のない者には妥協そのものが発生する余地はない。

妥協するにも、一体自分に主体がないのであるから、どこをどう妥協したのか論ずるまでもない。その種の人種は無能というべきである。

商品業界には取引所、あるいは団体役員等に妥協なき狭量の士と無能の士とが存外に多い―ということである。この種の人たちは会議の場で意思の表示が出来ず、会議の散ったあと、敗者どうしが、おたがいの心の傷をなめあうのである。

いうならば、それは悲しき人間である。持って生まれた心の広さ狭さの悲しき業なのかもしれない。

さて、相場のことを書かずに脱線したままで、読者から相場のことを書いてくれと、また注文が来るかもしれないが、年内の相場はすでに見通しをつけてある。

そして昭和50年の小豆相場についても幾度も予想や考え方について書いてきた。

長年相場記者をしてきてひとつの事を悟った。相場は目先の高低など、どうでもよい―という事を。理くつはあまり必要ではない。

●編集部注
 四十余年前の文章だ。

 しかし何故だろう平成の時と変わらぬこの味。

 ぶれない事は大切だ。

【昭和四九年十二月三日小豆五月限大阪一万七一七〇円・五〇円安/東京一万七一二〇円・七〇円安】