昭和の風林史(昭和五九年三月十五日掲載分)

春まだ浅き冷え込み時代

部分、部分の線香花火的相場展開で永続性がない。燃焼するエネルギー不足の段階。

相場は離れてみよという。

のべつまくなしダラダラ相場を張っていたのでは大成しないというのも、売るべし、買うべし、休むべしの、休むことができないからであろう。

ミクロにとらわれるとマクロが見えない。マクロにとらわれるとミクロで小水がかかる。

相場は欲張ると見えなくなる。不安が出てくると錯覚におちいる。我(が)を張ると真実の流れを見失う。

知識、常識、習慣、信念を盲信すると引き返す地点を失う。情報過多が観察力を低下さす。それは部分に惑わされるからだ。

判っていて判らぬところが古今相場の難かしさであり「難儀道」である。

人間、排泄(はいせつ)するものを調べれば、その人のすべてが判るという。

相場も排泄したものを分析すれば、だいたいが掴めるだろう。

人間の場合の排泄物は、排便、ゴミの捨て方、タバコの吹いがら、会社の退めかた、異性とのわかれ方、親子のわかれ方、友人、遊び、借金の後始末。ほかにもまだあるが、そういうものを調べれば興信所などに依頼する必要はない。

では相場の排泄物とはなにか。出来高、受け渡し高、建玉、取り組み、罫線、手口、ポジション・トーク、材料等、みな相場の排泄物である。
そして利食い金、損失金もいってみれば相場の排泄物にほかならない。

商品相場全般、逆ザヤ銘柄は安値売り込み。順ザヤ銘柄は高値買いつき。

玉が回転しにくいのと、新しい血が入ってこないから、排泄するものも少ないかわり、食欲もない。
循環の法則からいえば春まだ浅きところで待つは仁(じん)。ひたすら待つは忍耐でもある。相場の流れを見ているのも相場の内。

●編集部註
 〝相場は離れてみよ〟という格言だが、興味深い事に同じような事が色々な分野で言われている。
 「風姿花伝」や「花鏡」の著作で後世の人々に知られる事になる室町時代の申楽師、世阿弥は〝離見の見(りけんのけん)〟を説いた。名人は、俯瞰して自分が躍る姿を、我が身から離れて見る極地に至るという。
 ところ変わって古代中国では孫子が戦いの中で活路を見出す術としてこの〝離見の見〟に近い事を書き残している。
 風林火山はこの〝離見の見〟で排泄物に注目した。事実、自身の相場に関する本では「棄て方で人間がわかる」という一説を解説している。
 イオニアの哲学者ヘラクレイトスは万物は流転するものと喝破した。それに近いものがある。