昭和の風林史(昭和五九年一月二十三日掲載分)

ウラルの山は高けれど

信は力なり。ウラルの山は高けれど時至りなば崩れなん。勝敗は最後の五分にあり。

小豆当限の玉はほどけて、二月限も一限で付けた高値までは無抵抗だという人気になったが、この二月限は一月限の高値まで買い切れないとみる。

当限の渡し物は市場のキャパシティに応じたものはあるようだ。

連戦連勝の買い方にすれば四月まで輸入小豆の圧迫はないし、春需要が出てくる。また七限、八限と天災期限月が買い思惑の対象となるから春三月の彼岸までは逆ザヤ修正で、とりあえず五限、六限を買うのが判りやすいというセオリーである。

そしてもし、三月中に輸入臨時枠の発券がなければ、六月に少し押して天候相場に直結する―と。

これは理路整然の強弱である。

対して、三月限売りが自由化になろうと、なるまいと、必死の売り勝負という見方もある。

相場は、なにがなんでも勝たねばならない。毎日が追証の連続であろうとも、ウラルの山は高けれど―である。いかに高く聳えても時至りなば崩れるのだ。

売り方は自由化を思惑しすぎたのである。そしていま市場は自由化なしと結論している。売り方も反省している。相場とは不思議なもので、人々が一致して同じ考えに傾くと踵を返す皮肉性がある。

売って塗炭の苦しみをなめている人には、気やすめはもう不要。あるのは鬼気迫る気魄(はく)と、どこまで続くかの追証だけである。男一匹勝負を賭けた以上は志を貫くしか勝つ道はない。確かに、しまったは仕舞えで、あとは休むべしかも知らないが、人それぞれ悔のないやり方があると思うのだ。

●編集部註
 これからの記述はロートルの妄言として受け止めて戴けるとありがたい。いや、別段受け止めて戴かなくとも読み流して戴くだけで良い。
 先般、東京パラジウム市場の終値が前日比(前週比)264円安を記録した。この相場、その前の日に前日比325円高を記録している。クリスマスイブの頃に6182円の安値から18営業日後に相場は8426円に…。
 これが追証、臨増などで果たして対処出来ていただろうか。その昔、同じパラジウム相場で相場が崩壊した光景を目の当たりにした事があるので、多分出来なかったと思う。何より「シマッタ」で仕舞えなかったのである。それを考えると、この当時の相場は牧歌的であったのだなと思う。
 これとは別に、穀物相場には新穀、旧穀、限月問題が横たわっている。そこがマニア心をくすぐるのだろうが、何も知らない素人さんには敷居が高い。どんな時代も相場は難しいものである。