昭和の風林史(昭和五八年七月九日掲載分)

美幌よりK記者電話送稿

小豆はかなりローリングしだしたが突っ込みは買いの一手である。

家から持ってきた寒暖計を畑の中で北からの風にあてたら夕方五時、13度だった。

女満別周辺片山高台の昨年四俵半(小豆)とれた転作地帯を見てまずこの原稿を送る。

話には聞いていたが、とにかくひどいもので、小豆はまるで朝顔の苗みたいな寸法だから三㌢程である。水田は田植をした当時とほとんど変わらぬ姿。

スイートコーンも七㌢程で、青い畑といえばビートと玉葱だけ。金時もみな黄色になっていた。

地元の農家は収穫に対し絶望している人と、今後の天候の回復に期待をかけている人とに分かれるが小豆もコーンも収穫ゼロ、即ち壊滅と見た方がよい。

そのような畑に出て草取りをしているのは近年農作物に対する保険制度が進み、収穫期まで手入れをしなければ保険金がおりないシステムのようで、収穫絶無の畑でもつぶしてしまう訳にいかないそうだ。なんとも空しい作業である。

これから北見→帯広と回る。相場の方は台湾も中国も大幅な値上り、輸入の発券、発表等に関する材料はまず織り込んだところ。

再び相場は上昇トレンドに乗るところだ。

輸入大豆は随分長いあいだ買い玉辛抱していて、その買い玉に薄い薄い利が乗るや、早々と利食いしてしまう。

それでは辛抱する木に花を咲かせようと努力した甲斐がない。

利食いしたあとが、大きいのだ。

それは小豆で先刻見てきたはずである。

利食いするだけならまだよいが、列車に乗り遅れたからと、逆に売ったりする。

この事は年初来の、あの大きなゴム相場で体験した人が多かった。

輸大には特等席の切符がまだ幾らでも残っている。

●編集部註
 紀行文が、そのまま相場記事になっている。
 簡単そうで難しい。
 最近、ツイッターのタイムラインで軽く話題になっている連続ツイートを思い出した。呟いた人物は新聞記者である。
 新人時代に台風の取材でいの一番に地方の現場に到着した時、眼の前に飛び込んでいたのは、崩壊した町とそこかしこに倒れ、水に浮かび、ありえない場所に引っ掛かり、一部で積み上げられた死体であったという。彼はそれを見たまま書いた。
 その翌日、大手新聞社の記者が東京から来た。その記者は手漕ぎの船を駆使してあちこち回り、翌日「機械は残った」というタイトル付きの記事を書く。そこでは被害の様子と共に、その町の基幹産業の工場と立地場所、経営者側と労働者側の住居環境が併記され、死者の大半が後者側であったと書かれていたという。