昭和の風林史(昭和五七年十月六日掲載分)

悲しきは秋風ぞかし…

売るべし、買うべし休むべし。休むも相場。休んで人気の流れがどうなのかをみる。

かなしきは秋風ぞかし―と啄木はうたった。日の暮れも早くなる昨今、追証取り、きょうはどこまで行ったやら。

相場の荒れたあとのセールスマンこそ悲しけれ。

相場というものは、ある日突然一発ドカンだと思う。この一発ドカンを取る側に回るか、斬られる側に立つか。

ふり返ってみれば小豆の二万九千五百円あたり、玄人という玄人皆強気だった。そして、それらの人の口にする材料は、確かにその通りだったと思う。

しかし相場は別であると書いた。

ファンダメンタリストは理路整然と曲がるという。

ヒットラーの法則というのもある。できるだけ具体的に数字を並べて大嘘をつけ。必らず信ずる―と。

人間は弱いものであるから、迷うと人の意見が聞きたくてしょうがない。それも、自分のポジションの逆の人の意見ではなく、自分の期待値(ち)を十分に満足させるか、それ以上に頼り甲斐のある強弱を垂れてくれそうな人に相場どうだろう?と、すがる。

それは確かに逆境の時の一時的鎮痛剤ではある。

そしてこの鎮痛剤は、ほとんどの場合、あとからの副作用が大きい。

相場格言に「迷わば休め」というのがある。

その通りだと思う。迷った時に、逆のポジションの人の意見が聞けて、損切り、ドテンができるような人はほとんどいない。

であるならば「迷わば休む」しかない。

げに相場こそ難かしけれ。曲がった時は、まさしく悲しき竹笛である。

●編集部註
 「一般教養」と「共通言語」の境目は難しい。文学、音楽、芸能の世界は特に境目があいまいである。
 夏目漱石や石川啄木などは教科書に載っているので「一般教養」かも知れない。
 明らかに悲しき竹笛は「共通言語」だ。当節、近江俊郎が誰か判らない。今の四十代後半でも、審査員として淡屋のり子の近くに座っていた好々爺というイメージが辛うじてあるくらいかと思う。
 その昔、三波伸介や伊東四朗が登場して「赤城の山も今宵限り―」とやりだしたら、観客は「国定忠治」のパロディなのだなと把握出来た。故に理解出来る笑いのツボもあったと思う。これがカルチャーギャップである。
 逆に、オジサン達は今のアニメや漫画から来る「共通言語」は解らない。
 先日「ドラゴンボール」を読んだ事がない世代が現れたという記事を読み、遂に下の世代とのカルチ ャーギャップが色濃く出て来たかと慄いている。