昭和の風林史(昭和五七年九月三十日掲載分)

小豆も生糸も環境が悪い

小豆相場は上げられるようなものではない。生糸はますます買い方苦しくなってきた。

小豆は秋底が入っていないから中途半端に戻すと、その反動で崩れる。

強気をしても駄目ですよというのに、なぜ買いたがるのか判らない。

二万九千円を割って投げるべき玉が投げないと灰汁が抜けない。

産地から新穀の売り物があっても買い手がない。

実需が冷えきっている証拠である。

商いが極端に細っている市場は僅かの玉の出具合で高下する。そのような相場に嫌気して大衆は寄りつかない。

相場の上昇というものは市場に活力がない限りどのようなテコ入れをしようと、あるいは価格政策で吊ろうとしても所詮徒労に終わるものである。

豊作の出盛り期であるし、世の中不景気、まして中国も売りたがれば、台湾にも思惑失敗の六千㌧の玉が待機していては、この相場上にいけない。

生糸の方は期近限月の玉をほどくための努力が取引所関係者によって進められていたが、いまひとつ進展しない。

不自然な逆ザヤに対して行政当局もかなり神経質になってきた。

規制面も第二の穀取小豆にならぬよう急速に強化されつつある。

誰が見ても生糸の今の市場は異常だ。

限られた三軒の取引員が納会で現物を一手受け。これを買占めと言わずしてなんという。

長期的需給観による強気なら先限を思惑すればよいのだ。

買い方は無理の上の無理を業界環境をも考えず敢えて突き進めば、その行き着く所は破滅である。

取引所当局も市場を壊したくなければ勇気ある決断を今程必要としている時はない事を悟るべきではなかろうか。七月小豆の愚を繰り返えす勿れ。

●編集部註
 人生には「やる」か「やらないか」を選択する場面がやって来る。前者を選択した男たちの物語が映画「ロッキー」である。
 「やる」という勇気もあれば、当然の事ながら熟慮の末「やらない」という選択をする勇気もある。相場の世界に生きる人達は、とりわけ選択の岐路に立たされる回数が通常よりも多いのではないか。
 「やる」にせよ「やらない」せよ、熟慮し、勇気を振り絞って決断しない選択は「逃げ」だ。〝義を見てせざるは勇無きなり〟という言葉もある
 逃げるは恥だが役に立つ事が〝なかった〟のが、この時の取引所の行動であった。それが平成の御代になって明らかになる。