昭和の風林史(昭和五七年九月三日掲載分)

来週は穀取市場活気づく

小豆は高くなる。輸入大豆期近三本も高くなる。来週は市場が活気づきそうだ。

小豆相場はトレンドに忠実な足取りである。目下のところ31日の安値から千円ほど反発するコースに乗っている。

材料のほうは決め手がない。

作柄を模索し、収穫前の天候を心配し、次期枠や自由化問題を臆測し、ともかく、この材料というものだけは、あとからでてきて、知ったらしまいになる。

内部要因や市場人気は、これまた、はっきりしない。

いえることは総体に人気は弱いということ。

だから週明けにかけて買われる場面が来そうだ。

相場の人気というものは、これほど急変するものもない。きのう強気、きょう弱気なんてものでない。

場が立って、セリを聞いている最中に強弱が変化する。それでよいと思う。

相場には国境も思想も節操もない。だから、相場は孤独なもので、人と組んだり、連合したりするものでない。故郷はなれてはるばる千里、なんで思いがとどこうぞ、遠きあの空つくづく眺め、男泣きする宵もある―。これが相場である。

輸入大豆のほうは期近三本が力をためては寸退尺進。材料を克明に詮索するが、白日山に依りて尽き、黄河海に入りて流る―だ。

千里の目を窮(きわ)めんと欲し、更に上る一層の楼。

行きますよ、走りますよと相場様が言っている。来週は、かなり熱くなるだろう。

思うのだが相場は一に儲けにあり、二に強弱垂れるためにあり、三に辛労するためにある。強弱垂れの相場知らず。即ち理路整然と曲るファンダメンタリスト。三の辛労は、これは一種の道楽みたいなもの。

期近三本黙って強気しておればよい。

そして利食いは器量ということあり。随意、お気のむくまま、お気にめすまま。

●編集部註
 82年9月の小豆相場は、それまでの阿鼻叫喚の地獄絵図が嘘のような凪の相場となる。相場記者を殺すのに刃物はいらぬ。上下に左程動かぬ相場さえあればそれで良い。
 あれこれ書いても、肝心の相場が動かぬのだからしょうがない。自然と文章に漢籍が出て来てもしょうがない。むしろ、オールドファンはこうした一見無駄な文化的教養のある文章がお好みであったりする。
 相場とは関係ないが、戦後史年表で1982年9月の項目を見ると、この日大阪駅前に待ち時間が表示される信号が日本で初めて設置されたとの事。あの頃の大阪駅は地下も地上も今と違い混沌猥雑として面白かった。