昭和の風林史(昭和五七年六月九日掲載分)

穀取は決然たる姿勢示せ
 
関係穀取は市場機能維持のため決然たる姿勢が望まれる。事態は深刻である。
 
今の小豆相場が異常でないと思っている人がいるとすれば、その人の神経が異常なので異常神経の持ち主に常識論を説いても幻覚症状がきつくなるばかりで怖い。

産地の天候が非常によい。産地相場は新甫から千円下げている。これが正常な相場の姿である。

消費地在庫量は増大の一途なのに逆ザヤは変だ。

規制はこれで第二次になる。東穀、大穀が会員懇談会形式で市場の異常事態に対処していることは、とりもなおさず普通でないことを物語るが、仕手機関店は買い本尊にこの事を了解してもらう力がないのか、それとも死なばもろともヤマト魂。前進あるのみ特攻万歳攻撃、あとは野となれ山となれなのか。

取引員機関店は、経営の責任と市場遵守の責任がある。これを放置すれば、すでに商取業界の一員とはいえない。

玉がここまでふくらんだのでは―というのは無責任ないいのがれだ。

玉がふくらんだら、どうなるかは、誰よりもよく判っているのが仕手機関店だ。

天候勝負というが、ポーカーゲームではない。取引所という公共機関における投機思惑には戦い破れた時の責任をも考えておくものだ。

天候はよい。相場は腕力でねじ伏せられているから機能しない。だから役所も取引所も業界も異常だと騒ぐのである。

関係取引所は市場を暴力的買い方仕手から守る責任がある。すでに各市場間の価格平準機能が破壊されている。取引所の決然たる姿勢が望まれる。

●編集部注
 わかっちゃあいるけどやめられない―。と、ハナ肇とクレージーキャッツ「スーダラ節」を発表したのが1961年8月。
 この記事が世に出ている時点で実に20年以上が経過している。
 しなかったのと出来なかったは似て非なるもの。晩年の風林火山はに日本の商品先物取引の運営方法について批判を繰り返していた。この頃から既に批判精神は健在である。
 ここで誤解して欲しくないのは「批判」と「悪口」は全く違うという事。
 Aを批判する時は、必ずAという存在を完全に理解した上で「こうすればいい」「これがないのはおかしい」「こうじゃないからダメなんだ」とならなければいけない。
 風林火山の批判は、批判のための批判ではなか った。かくあるべきというビジョンがあった。
 人は耳の痛いところを突かれると弱い。大人物だと取り入れるが、小物だと退けてしまう。